LOGIN「……夜道で何をしている」
黒い外套の男が遥香に向けたのは、冷たい声だった。
その男——伏見朔は
甲、乙、丙に区分されたこの社会で、最も優秀な存在。
そして、誰よりも運命の
「早く帰れ」
朔は低い声で告げる。それが精一杯だった。
これ以上近付けば、触れたくなる。
触れれば、きっと止まれない。
そう本能が警鐘を鳴らしていた。
(
色素の薄い瞳が、かすかに金色に光る。
「は、はい……」
遥香は小さく頷き、歩き出そうとした。
だが、足が動かない。
朔から漂う香りに、遥香の身体が熱を帯び始めていた。
薄荷のような清涼感。その奥に、橘の花を思わせる柔らかな甘さ。
(知らない——名前も、素性も、何も知らない相手なのに……)
遥香は小さくしゃがみ込む。
(近付きたい……)
身体が勝手に彼を求める。
(触れたい……)
理性は必死に否定している。
それでも本能だけが、彼を運命だと叫んでいた。
「どうした」
「あの……」
遥香は困ったように笑う。
「動けなくて……」
「腰でも抜けたのか」
「あ……はは」
遥香は、一人で立ち上がろうとする。膝は震え、力が入らない。
どれほど、身体が求めても、誰かに縋るという発想は、遥香にはなかった。
(早く、立ち去らないと……このまま、しゃがみ込んでいては、この方の迷惑になってしまうわ)
「私のことは気になさらないでください。少し休んで、帰りますので」
遥香は、弱弱しく微笑む。
その笑顔を見て、朔は僅かに表情を和らげた。
「家まで送ろう」
その言葉は短かった。これ以上話せば、自分を律することができないかもしれない。
そう感じていた。
「い、いいえ」
遥香は首を振った。
「自分で帰れますから」
肩を震わせながら立ち上がり、一歩踏み出す。
遥香の身体がグラリとふらついた。
咄嗟に、朔はその細い肩を支える。
朔のスラリとした腕に抱きとめられた、その瞬間——
甘い香りが一気に弾けた。
「……!」
遥香の頬が桃色に染まる。
朔も息を呑んだ。
離さなければ。お互いに、そう分かっていた。
理性は何度も命じる。
だが、身体は動かなかった。
運命が、二人の距離を奪っていく。
次の瞬間。
二人の唇は、引き寄せられるように重なっていた。
「本日は、折り入ってお話があります」 桜庭公爵家の当主、桜庭景の言葉に、椿和馬は目を輝かせた。 公爵家の当主が、わざわざ自ら足を運んできたのだ。よほど重要な話に違いない。「ほう。それは、いったい……?」「ご長女の遥香様についてです」 和馬の表情が、ぴたりと止まった。 遥香。あの、縁香を持たない丙の娘。 妹の小鈴は西条家との婚約を整えたというのに、長女のほうは悪女の噂まで立っている。 そんな娘に、公爵家が何の用だろう。「……遥香、ですか」「はい。私の上官である伏見朔中将が、正式な妻として迎えたいと望んでおられます」「伏見中将……」 和馬は考え込んだ。 中将といえば、軍の幹部にあたる。だが、伏見家には爵位がないはずだ。
「俺には任務がある。旧華族とのつながりが必要だ。君にとっても、椿家を離れることは悪い話ではないだろう」 遥香は、俯いた。「……少し、考えさせていただけませんか」 朔は、無理もないことだと思った。結婚というのは、人生にとって一大事だろう。 しかし、彼女を取り巻く状況を考えれば、椿家から離れることには意味があるはずだ。「もちろん」 夜分遅くに失礼した。朔がそう告げようとしたとき、遥香は、静かに尋ねた。「……私は、何をすればよいのでしょうか?」 朔は少し考えた。「何もしなくていい」 「え……?」 「君に、何かを強いるつもりはない。今までどおり暮らせばいい」 結婚したからといって、彼女に特別な役割を求めるつもりはなかった。 自分には任務がある。彼女にも、彼女の人生がある。 必要な縁を結び、互いに不利益がないようにする。それで十分だ。 だが、遥香はなぜか、ますます戸惑ったような顔をした。 「ですが……妻になるのでしたら、私にも何か、できることがあるのでは……」 「無理に探す必要はない」 朔は、きっぱりと答えた。 彼女は、これまで家族から十分な扱いを受けてこなかったようだ。 ならば、せめて自分のもとでは、余計な苦労をせずに暮らしてほしい。 それ以上のことを求めるつもりはなかった。 遥香は、しばらく黙っていた。 やがて、諦めたように小さく頷く。 「……分かりました」 その声が、どこか沈んで聞こえたのは気のせいだろうか。 朔は、理由を考えかけて、やめた。
「椿家で彼女は冷遇されている。今日はこの屋敷に泊めてもらえないか?」 朔の言葉に、景は遥香へと視線を向けた。「構わないが……彼女の立場を考えれば、外泊というのは世間体が良くないな」「彼女はベランダの件で怪我をした」「え?」「ベランダの件で怪我をした。そういうことにすれば良いだろう」 景は一瞬、呆気に取られたように朔を見た。 やがて、事情を察したらしい。小さく肩をすくめ、遥香に向き直った。「まあ、そうだね。遥香嬢、それでいいかな?」「はい!」 遥香は、ぱっと顔を輝かせた。 あまりに嬉しそうな返事に、朔は思わず彼女を見た。 実家に帰らずに済む。それだけのことが、そんなに嬉しいのか。 彼女が椿家でどのような扱いを受けてきたのか。朔はまだ、そのすべてを知らない。
「こんなことをして、後で泣きついても知らないからな!」 慶一郎は遥香にそう吐き捨てると、人垣を掻き分け、屋敷を立ち去った。 その背中を人々はヒソヒソと囁きながら見送る。「西園寺公と呼ばれていたぞ」「西条公も形無しだな」 そう。慶一郎の苗字は、西園寺ではなく、西条なのだ。 遥香は、呆気に取られていた。(西条家の家名を、平然と跳ね除ける人がいるなんて) 慶一郎に捨てられたくないと、ずっと思っていた。 彼に選ばれることが、幸せなのだと信じていた。 華族の丙とは、そういうものだと父は言った。女学校の友人たちも、同じように信じていた。 良き甲に選ばれ、妻となり、番として愛される。それこそが、丙に生まれた女の幸せなのだと。(この方は、私とは違う世界に生きているんだわ) 遥香は、朔の背中を見つめる。
「栄養価の高いもの……肉が少ないな。魚でも足すか?」薄くスライスされた鯛に手を伸ばす。艶やかなドレッシングをまとい、黒い魚卵を乗せた生魚は、確か、カルパッチョと言ったはずだ。「あとは……」目ぼしい料理を探す。その背中を、一人の青年が後ろからポンと叩いた。「朔、一度にそれほど皿に盛らなくてもいいだろう。料理は逃げないよ」振り返ると、夜会用の正装に身を包んだ青年が、佇んでいた。艶のある淡く茶色い髪に、涼やかな瞳。整った顔立ちには、朔とは正反対の、人好きのする柔らかな笑みが浮かんでいた。「景か。放っておいてくれ。今は忙しい」朔はそっけなく言う。青年の名前は桜庭景。華族の中でも位が高く、帝国王族の遠縁に当たる由緒正しい貴公子であり、この屋敷の主でもあった。「君は仕事が速い男だと思っていたが、まさか色恋沙汰まで得意だとは思わなかった」景は手にしたグラ
夜会場には楽団が奏でる音楽が優雅に流れていた。朔は、傍らを歩く女——椿家の長女に視線を落とす。長い髪がゆるやかに流れ、宵闇色のドレスからのぞく白い肩は、壊れそうなほどか細い。支えるように手を添えている背中も、あまりに頼りないように感じた。「あまり食べていないのか?」「え?」朔の質問に、遥香の瞳が揺れた。長いまつ毛を伏せ、何かを言いかけては口を閉じる。彼女の言葉を、朔は静かに待った。やがて、遥香は寂しそうに言った。「あの、私は丙で……」「だから?」朔の声は冷たかった。自分でも意外なほどに。先ほどベランダで長々と妹が話していたように、婚約者の男への未練があって、食が細くなっているのだとでも言うのだろうか。しかし、それも、どうでも良い。どうでも良いはずなのに、なぜか、胸がムカムカした。遥香は、朔の態度に動じなかった。ただ、少し言いにくそうに告げた。「不出来な丙の子女への教育では、そういうことがあると、聞いております」「そういうこと、というのは?」「ええと……あの、食事を抜く、ですとか、そういう類のことです」遥香の答えに、朔は絶句した。「それは教育とは言わないだろう」「そう、ですか……」遥香は再び目を伏せた。白い肩が、再び目に留まる。朔は、胸のムカつきを追い出すように、大きく息を吐いた。「そこの椅子にでも座っていろ」「はい……」壁際の椅子に掛けさせると、遥香は、ほうっと小さく肩を落とした。「痛みは?」「大丈夫です。ありがとうございます」遥香は遠慮がちに微笑みながら、朔を見上げた。先ほどまで強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいでいる。その顔は、夜会のドレスを着ているのが不思議なほど、あどけなく見えた。「良かった」朔は頷くと、ホールへと視線を送った。(こういう席には、食べ物があったはずだ。飲み物も飲ませた方がいい)「席を外す」そう言うと、朔は遥香に背を向け、歩き始めた。「あ……」朔の背中を見つめ、遥香は思わず、声を漏らした。(置いて行かれてしまった……)伸ばしかけた右手を膝の上に置き直し、左手をそっと重ねる。(私は、どうして、いつも上手くできないのかしら)丙なのに縁香も持たない。気の利いたことも言えない。(それは教育とは言わないだろう)先ほど、黒髪の軍







